ニホンオオカミが登場する伝説をご紹介します。
ここでは、「日本書紀巻第7 大足彦忍代別天皇 景行天皇」にある、ヤマトタケルを白いヤマイヌ=白いニホンオオカミが導き、助けるというお話をご紹介します。このお話は、狼信仰として現在も人気の高い三峯神社、武蔵御嶽神社でも、神社の由緒とされているお話です。
現代語訳、古文、そして漢文でご紹介します。
口語訳
日本書紀 巻第七
大足彦忍代別天皇 景行天皇
(省略)
ここで道を分けて、吉備武彦(きびのたけひこ)を越国に遣わし、その地形や人々のようすを監察させ、日本武尊は信濃国に進まれた。この国は、山が高く谷は深く、青々とした嶺が幾重にも重なり、人は杖をついても登るのがむずかしい。巌は険しく、石の坂道がめぐり、高峰は千々に連なり、馬も歩を進めることができない。しかし日本武尊は霞をかき分け、霧を凌ぎ、はるかに大山を進まれた。やがて嶺に着き、空腹となったので山中で食事をとられた。その時、山の神は王を苦しめようとして、白鹿に姿を変えて王の前に立った。王は不思議に思い、一つの蒜(ひる)を白鹿に弾きかけると、(それが)眼に当たり、鹿は死んだ。すると、王はたちまち道に迷い、出口が分からなくなられた。その時、白い狗が現れ、王をご案内するような様子をみせた。その狗について行かれると、美濃にお着きになった。吉備武彦は越からやってきて、王にお会い申し上げた。従来、信濃坂(長野県下伊那郡阿智村と岐阜県中津川市との間の神坂峠)を越える者は、神の邪気を受て、病み臥す人が多かった。しかし日本武尊が白鹿を殺されてからは、この山を越える者は、蒜をかんで人牛馬に塗った。すると、神の邪気にあたらなくなった。(以下省略)
- 日本書紀では信濃での出来事となっていますが、古事記では足柄山での出来事として記載されています。ヤマトタケル(古事記では倭建命)が「白い鹿」に姿を変えた山の神に蒜を弾きかけ、それが目に当たった山の神が死ぬというストーリーは同じですが、「白い狗」の話は古事記にはありません。
- 蒜(ひる)は、にんんくで、古くから肉類や虫毒の解毒に用いられました。強いにおいをもつもので邪気や害獣を追い払うという考え方は、古くから日本にもあり、現在でも「節分いわし」などに受け継がれています。
- 鹿を「かせき」と呼ぶのは、角の形が桛木(かせき)の形に似ていることに由来しています。ちなみに桛木とは、木をY字型に加工したもので、傾くものを支えたり、物を高い場所へ押し上げたりするのに使う道具のことです。
- 日本では古来より、「ヤマイヌ(豺、山犬)」、「オオカミ(狼)」と呼ばれるイヌ科の野生動物が説話や絵画などに登場しています。ヤマイヌとオオカミは同じものとされることもありましたが、江戸時代頃からこれを分け、「ヤマイヌは小さくオオカミは大きい」、「オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった」など、様々に分類されてきました。しかし現在では、ヤマイヌはオオカミ(ニホンオオカミ)とする説が有力です。ちなみに「ニホンオオカミ」という呼称は明治以降のものです。
- 山中でヤマイヌ(ニホンオオカミ)がヤマトタケルを導いたとするこの物語は、「送り狼」というニホンオオカミの習性に基づいているとする説があります。ニホンオオカミには、自分の縄張りに入った人間の後をつけて監視する習性があり、これを「送り狼」といいます。その伝説としては、「お礼を言うと守ってくれる」、「後ろを振り返る、或いは転ぶと襲われる」等いろいろとありますが、このヤマトタケルの物語の場合、山中でヤマイヌ=ニホンオオカミを味方につけることで、無事に険しい山道を越えたとも考えられます。
古文
日本書紀 巻第七
大足彦忍代別天皇 景行天皇
(省略)
是に、道を分りて、吉備武彦を超国に遣して、其の地形の嶮易及び人民の順不を監察しむ。則ち日本武尊、信濃に進入しぬ。是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。厳嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。然るに日本武尊、烟を披け、霧を凌ぎて、遥に大山を徑りたまふ。既に峯に逮りて、飢れたまふ。山の中に食す。山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異びたまひて、一箇蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。狗に随ひて行でまして、美濃に出づること得つ。吉備武彦、超より出でて遇ひぬ。是より先に、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。但白き鹿を殺したまひしより後に、是の山を踰ゆる者は、蒜を嚼みて人及び牛馬に塗る。自づからに神の気に中らず。(以下省略)