眞神原(まかみがはら)という地名

『万葉集』等の古典にいう「眞神原(まかみがはら)」という地は、現在の奈良県明日香村飛鳥、岡あたり、飛鳥寺や奈良県立館付近の一帯を指す呼称と推定されています。

その地名の由来として有名なのが、江戸時代前期の歌人であり、和学者でもある下河辺 長流しもこうべ ちょうりゅう / ながる、寛永4年(1627年)? – 貞享3年6月3日(1686年7月22日))が記した和歌注釈書『枕詞燭明抄(まくらことばしょくみょうしょう)』によるものです。これを、『古風土記逸文』( 栗田寛 (著) )でみてみましょう。ちなみに、『古風土記逸文』は、散逸してしまった各地方の古風土記を水戸藩国学者であり後に帝国大学教授となった栗田 寛くりた ひろし、天保6年9月14日(1835年11月4日) – 明治32年(1899年)1月27日)が纂訂したものです。

< 読 み >
大和
大口眞神原
枕詞燭明抄。大口の眞神の原の注に云く。是は、昔、明日香の地に老狼(おほかみ)ありて、さはに人を喰へり。土民(くにたみ)恐れて、大口の神といふ。其處(そこ)を名づけて、大口の眞神の原と號(い)ふ。風土記に見ゆとあり。

これをもって、現在は「大口眞神」、或いは「眞神」といえば、ニホンオオカミを神格化した呼び名であり、「眞神原」は狼が現れるような荒野を、時には寂しく、時には畏怖の念を込めて表現しているとする見方が一般的です。そして、「大口の」は「眞神」にかかる枕詞と捉える場合が多いです。

しかし、下河辺長流の記した『枕詞燭明抄』によると、眞神原にいたのは、普通の狼ではなく、多くの人を食べる老狼であり、土地の人々はそれを畏れ「大口の神」と呼んだということです。「神」と呼ばれた老狼は、もしかしたら狼というよりも妖魔のような得体の知れない恐ろしい存在だったのかもしれません。古来より日本では得体の知れない恐ろしいものを「神」と呼び、崇め祀る習慣があります。

さらに、この話が本当に元の『風土記』にあったかどうかは疑問視されています。

栗田寛は、『古風土記逸文考証』に、「大口神とは狼のことであるが、獣類を神ということは古来よりある」とし、その例を以下のように挙げています。

  • 『日本書紀』欽明記に、秦大津父(はだのおおつち)が山で闘っている二匹の狼を「貴(かしこ)き神」と呼んだ話がある。
  • 『日本書紀』欽明記に、膳巴提便(かしわで の はすひ)が、派遣された百済において自分の子を食べた虎に復讐する話があり、そのとき虎のことを「威神(かしこき神)」と呼んでいる。(膳巴提便は虎に「惟汝威神、愛子一也。今夜兒亡、追蹤覓至、不畏亡命、欲報故來。」(思うに、霊威ある神も子を愛する気持ちは同じであろう。今夜、我が子がいなくなり、跡を追ってここまで来た。死も恐れず、報復するためにやってきた。)と述べ、復讐している。)
  • 万葉集巻十六-3885長歌に、「韓国(からくに)の虎とふ神」と詠っているものがある。
  • 『日本書紀』神代紀に、素戔嗚尊(すさのを の みこと)が蛇のことを「可畏之神(かしこきかみ)」と言っている。(蛇は八岐大蛇のこと。日本書紀では、素戔嗚尊は安芸国(あきのくに)で、脚摩手摩(あしなづてなづ)という神とその妻、稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)との間に生まれた子どもを食べに来た八岐大蛇に、「汝(いまし)は是可畏き神なり。敢(あ)へて饗(みあへ)せざらむや」(お前は、恐れ多い神である。ご馳走しないわけにはいかない。)と言い、酒を飲ませて眠らせ、斬っている。)
  • 『常陸風土記』に、大蛇が多くいたところを「大神(おおかみ)」と名付けたとある。

そして、「『大きな口』で狼を連想するのは確かだが、古事記に『口大之尾翼鱸』(おほくちのをはたすずき)という記述もあり、『大口の神』を直ちに『狼の神』とするのは難しい。風土記の説のとおり、地名を『大口能眞神原』というのであれば、『大口之』は枕詞ではない。しかし、書にただ『眞神原』とあれば、狼は口が大きいので『大口の神』といい、『眞神』は文字どおりであるので、『大口之』という枕詞をおくと考えられる。風土記の説は、これらの考えを二つに合わせ、本よりの地名にあうように語り伝えたものかもしれない。」と綴っています。

つまり、現在では、「眞神」或いは「大口眞神」といえば、直ちにニホンオオカミを神格化したものとしてほぼ間違いはありませんが、江戸期以前の日本の場合、「大口の神」は狼のことを言っているのかもしれないし、それ以外の生物のことを言っている可能性もある、ということです。

また、このブログの記事「汝は是貴き神にして~日本書紀に登場するニホンオオカミ~」で秦大津父(はだのおおつち)が闘う二匹の狼を「貴(かしこ)き神」と呼んだ物語を紹介しましたが、他の物語では、「かしこき神」は、使用されている漢字は異なりますが、虎でもあり、蛇でもあり、さらに他にも「かしこき神」と呼ばれた生物はいたものと思われます

ニホンオオカミは日本人にとって身近な生物ではあったのですが、ヤマイヌ(山犬、豺)とオオカミ(狼)という曖昧な呼称に代表されるとおり、その関係性は不明なことがとても多いです。

ただ、ニホンオオカミを眷属神として祀る神社は古くから日本にあり、また、民間でもニホンオオカミの骨を使った憑きもの落としのまじないが広く行われていたことなどから、日本人にとってニホンオオカミは、神聖で恐ろしい「神」である生物の一つであり、その中でも特別な存在であったことは、間違いないことだと思います。

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