ニホンオオカミが登場する伝説をご紹介します。
ここでは、「日本書紀 巻第19 欽明天皇」にある二匹の狼のお話を、現代語訳、古文、そして漢文で紹介します。
秦大津父(はだのおおつち)という人物が伊勢に商に行った帰り、山で二匹のオオカミが血まみれになって争っているのを見かけます。大津父はこのオオカミを「貴き神」であると直観し、そのオオカミに「汝は是貴き神にして麁(あら)き行(わざ)を樂む――あなた方は貴き神で、荒業を好まれる。しかし、もし血にまみれたのあなた方を猟師がみつければ、たちまち捕えてしまうだろう」と告げ、二匹に争うことをやめさせ、体についた血を洗い流し、二匹共の命を助けたというお話です。
口語訳
日本書紀 巻第十九
天国排開広庭天皇 欽明天皇
欽明天皇(きんめいてんのう)は継体天皇(けいたいてんのう)の嫡子で、母を手白香皇后(たしらかのひめみこ)と申します。継体天皇はたいそう愛され、常に身元においておられました。
欽明天皇が幼少とき、夢をご覧になりました。その夢である人が、「天皇が秦大津父という者を寵愛なされば、成人されて必ず天下をお治めになるでしょう」と申し上げました。
目覚めた天皇が、広く天下に使者を遣わし探させたところ、山背国の紀伊郡の深草里(京都府 伏見区深草)に見つけることができました。姓名は確かに夢でご覧になったとおりでした。そこで喜び が お身体に満ち、まったく珍しい夢であったと感嘆なさいました。
天皇は秦大津父に告げ、「何か思いあたることはないか」と仰せられました。大津父は答えて、「特に変わったことはございません。 ただ、私が伊勢で商売をして帰る時、山の中で二匹の狼が噛み合い、血塗れになってるところに遭遇いたしました。(私は)すぐに馬から下り、口をすすぎ、手を洗い、祈請して『あなたは貴い神で、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に会えば、たちまち捕獲されるでしょう』と申しました。そして嚙み合うのをやめさせ、血で汚れた毛を拭い洗ってやり、共に命を助けてやりました」と申し上げました。
天皇は「きっとそれが 報われたのだのだろう」と仰せられました。そして、大津父を近くに仕えさせ、優遇なさいました。こうして大津父は富を重ね、天皇が即位された後には大蔵の司に任じられました。(以下省略)
<補足>
- 欽明天皇のとき、百済から仏教が公伝しました。
- 秦氏は、現在では「はた」氏と読みますが、奈良朝では「はだ」氏と発音されていたと考えられています。
- 第26第継体天皇、第27第安閑天皇、第28第宣化天皇、そして第29第欽明天皇の時代は不明瞭なことが多く、また、安閑天皇と宣化天皇は即位が不明瞭な天皇であることから、この時代は、安閑・宣化朝と欽明朝は並立していた、或いは別王朝であったという説があります。また、大伴氏が擁立していた継体天皇が崩御し、蘇我氏に擁立された欽明天皇が即位したが、大伴氏はこれを認めず、同時に安閑天皇、宣化天皇を擁立したとする説もあります。いずれにしても、この物語で争う二匹の狼は、王位を巡って争う二政権を抽象化したものであり、秦大津父が二匹の狼を助けた話は、安閑・宣化朝と欽明朝の対立、そして、欽明天皇による両朝統一を寓話化したものであるとする説があります。
古文
日本書紀 巻第十九
天国排開広庭天皇 欽明天皇
天国排開広庭天は、男大迹天皇の嫡子なり。母をば手白香皇后と日す。天皇、愛びたまひて、常に左右に置きたまふ。天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく、「天皇、秦大津父といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寐驚めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、忻喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。及ち告げて日く、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、「無し。但し臣、伊勢に向りて、商価して来還るとき、山に二つの狼の相闘ひて血に汙れたるに逢へりき。及ち馬より下りて口手を漱ぎて、祈請みて日はく。『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。儻し猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。及ち相闘ふことを抑止めて、血れたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇日はく、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。及ち近く侍へしめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。践祚すに及至りて、大蔵省に拝けたまふ。 ~以下省略 ~