『万葉集』には4500首以上の和歌が収められており、多くの生物が登場しています。人々にとって身近な存在であった犬や鹿、猪、馬、牛、鳥、狐、兎、ムササビ、猿、熊、鯨、さらに、日本には生息していない虎までもが登場していますが、狼(ニホンオオカミ)が登場する和歌は一首もありません。
あえて言えば、「眞神原」という地名で登場する、とはいえますが、このブログの記事「眞神原(まかみがはら)という地名」で紹介したとおり、その地名が本当に狼に由来しているのかは不明で、「眞神原」を詩に詠んだ人が狼のことを意識していたのかどうかはわかりません。
それを踏まえた上で、『万葉集』の中で「眞神原」が登場する和歌を紹介します。
『万葉集』には、「眞神原」を詠んだ和歌が、「巻第二 挽歌」、「巻第八 冬雑歌」、「巻第十三 相聞歌」に、少なくとも3首見ることができます。その中で、今回ご紹介するのは、「巻第二 挽歌」に収められている和歌です。
万葉集第二挽歌に収められたこの和歌は、柿本朝臣人麻呂(かきのもと の あそん ひとまろ)が、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の薨去に遇い、皇子の遺体の仮安置に際して、詠んだものです。
遺体の仮安置とは、殯(もがり)ともいい、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認することです。その棺を安置する場所をも指すこともあり、殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)といいます。皇室では現在でも儀式として行われており、昭和天皇崩御の際はおよそ50日間、殯の行事が続けられました。また、一般的に行われている通夜は、殯の風習が現在に受け継がれたものです。
ちなみに、万葉集の和歌は、「雑歌(ぞうか)」(宴や旅行での歌)、「相聞歌(そうもんか)」(男女の恋の歌)、「挽歌(ばんか)」(人の死に関する歌)の三つのジャンルに分かれており、この和歌は、柿本朝臣人麻呂が高市皇子の死を悲しむ和歌であるので、「挽歌」となっています。
万葉集 巻第二 挽歌
高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷せて短歌
古文
一九九
かけまくも ゆゆしきかも( 一には「ゆゆしけれども」といふ) 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ(一には「掃ひたまひて」といふ) 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと(一には「掃へと」といふ) 皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も(一には「笛の音は」といふ) 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに(一には「聞き惑ふまで」といふ) ささげたる 旗の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の(一には「冬こもり 春野焼く火の」といふ) 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に(一には「木綿の林」といふ) つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く(一には「諸人の見惑ふまでに」といふ) 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ(一には「霰なす そち寄り来れば」といふ) まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに(一には「朝霜の消なば消と言ふに うつせみと 争ふはしに」といふ) 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 奏したまへば 万代に しかしもあらむと(一には「かくしもあらむと」といふ) 木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を(一には「刺す竹の 皇子の御門を」といふ) 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高くし奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏くあれども
短歌二首
二〇〇
ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひわたるかも
二〇一
埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ
或書の反歌一首
二〇二
哭沢の神社に御瓶据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ
右の一首は、類聚歌林には「檜隈女王、哭沢の神社を怨むる歌なり」といふ。日本紀を案ふるに、曰はく、「十年丙申の秋の七月辛丑の朔の庚戌に、後皇子尊薨ず」といふ。
現代文
一九九
心にかけて思うのも憚り多いことだ。(憚り多いことであるけれども、)ましてや口にかけて申すのも恐れ多い。明日香の真神の原に神聖な御殿を畏くもお定めになって天の下を統治され、今は神として天の岩戸にお隠れ遊ばしておられるわれらが天皇(天武)が、お治めになる北の国の真木生い茂る美濃不破山を越えて、高麗剣和射見が原の行宮に神々しくもお出ましになって、天の下を治められ(掃い浄められて)国中をお鎮めになろうとして、鶏が鳴く東の国々の軍勢を召し集められて、荒れ狂う者どもを鎮めよ、従わぬ国を治めよと(掃い浄めよと)、皇子であられるがゆえにお任せになったので、わが皇子は成り代わられた尊い御身に太刀を佩かれ、尊い御手に弓をかざして軍勢を統率されたが、その軍勢を叱咤する鼓の音は雷の声かと聞きまごうばかり、吹き鳴らす小角笛の音も(笛の音は)敵に真向かう虎がほえるかと人びとが怯えるばかりで(聞きまどうばかり)、兵士どもが捧げ持つ旗の靡くさまは、春至るや野という野に燃え立つ野火が(冬明けての春の野を焼く火の)風にあおられて靡くさまさながらで、取りかざす弓弭のどよめきは、雪降り積もる冬の林(まっ白な木綿の林)に旋風が渦巻き渡るかと思うほどに(誰しもが見まごうほどに)恐ろしく、引き放つ矢の夥しさといえば大雪の降り乱れるように飛んでくるので(霰のように矢が集まってくるので)、ずっと従わず抵抗した者どもも、死ぬなら死ねと命惜しまず先を争って刃向かってきたその折しも(死ぬなら死ねというばかりに命がけで争うその折しも)、渡会に斎き奉る伊勢の神宮から吹き起こった神風で敵を迷わせ、その風の呼ぶ天雲で敵を日の目も見せずまっ暗に覆い隠して、このようにして平定成った瑞穂の神の国、この尊き国を、我が天皇(天武・持統)は神のままにご統治遊ばされ、われらが大君(高市)がその天の下のことを奏上なされたので、いついつまでもそのようにあるだろうと(かくのごとくであるだろうと)、まさに木綿花のようにめでたく栄えていた折も折、我が大君(高市)その皇子 の御殿を(刺し出る竹のごとき皇の御殿を)御霊殿としてお飾り申し、召し使われていた宮人たちも真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の広場に、昼は日がな一日、鹿でもないのに腹這い伏し、薄暗い夕方になると、大殿を振り仰ぎながら鶉のように這いまわって、御霊殿にお仕え申しあげるけれども、何のかいもないので、春鳥のむせび鳴くように泣いていると、その吐息もまだ消えやらぬのに、その悲しみもまだ果てやらぬのに、 言さえぐ百済の原を通って神として葬り参らせ、城上の殯宮を永遠の御殿として高々と営み申し、ここに我が大君はおんみずから神としてお鎮まりになってしまわれた。しかしながら、我が大君が千代万代にと思し召して造られた香具山の宮、この宮はいついつまでに消えてなくなることなどあるはずがない。天あまつ空を仰ぎ見るように振り仰ぎながら、深く深く心に懸けてお偲びしてゆこう。恐れ多いことではあるけれども。
短歌
二〇〇
ひさかたの天をお治めになってしまわれたわが君ゆえに、日月の経つのも知らず、われらはただひたすらお慕い申しあげている。
二〇一
埴安の池、堤に囲まれた流れ口もないその隠り沼のように、行く先の処し方もわからぬまま、皇子の舎人たちはただ途方に暮れている。
或書の反歌
二〇二
哭沢の神社に御酒の瓶を据え参らせて無事をお祈りしたけれども、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。
参考
- 「不破山」は、不破関址の西伊増峠あたりと推定。
- 「高麗剣」は、「和射見」(関ヶ原)の枕詞。
- 「小角」(くだ)は、軍隊用の角笛の一種。
- 「うつせみ」は、命の限りの意。
- 「瑞穂の国」は、高天原から呼ぶ日本国の称。
- 「神宮」(かむみや)とは、生前の宮を仮に殯宮に仕立てたことをいう。
- 「埴安」(はにやす)は、香具山の西の池。その側に高市皇子の宮殿があった。
- 「百済の原」は、香具山と明日香の間にあった原の名と推定。
- 「常宮」は、永久に変わらない宮殿のことで、貴人の墓、陵墓の意でも使われる。
- 「哭沢の神社」(なきさはのもり)は、香具山西麓の神社。
- 「類聚歌林」(るいじゅうかりん)は、山上憶良が(やまのうえ の おくら)編んだ歌集。その一部が『万葉集』巻一、巻二、および巻九の9箇所ばかりに引かれている。